屈折

http://d.hatena.ne.jp/REV/20070324/p3
愉快犯かぁ。。。
反応が一切ないのも寂しいんだけど、
たまに反応があると、それはそれで焦る。


> おやつは300円まで、と先生が言うと、バナナは(ry
これは言ったことないと思う。
「今月はもう手持ち資金300円切ってるんですが、公費で補助は出ますか?」
とか、私なりに考えて、もっと工夫を凝らしていた気がする。
、、、はい。その通りです。要するに、「バナナは?」っていうタイプの子供でした。


屈折率が高すぎて以前の日記からは削除したが、こういうこともやった。
学級委員長になって学級会で委員長に絶対的権限を与えることを議決
とか、そういう無茶苦茶なやり方を止める教師に対して、
「あなた方が忌み嫌う絶対的権力を、あなた自身が今正に行使!」
みたいなことを言って挑発してみたりとか。
似たようやつだと、
「校歌に『国の望みのにために』みたいな歌詞があるが、これは全体主義を刷り込む戦前・戦中の歌だから歌いたくない」
「教師が国旗・国家を許否するのと同じだ」
とかっていって、合唱練習を妨害とかってのもやった。
先生も大変だね。


因みに、こういのうは、結構矯正されました。
学年が上がるにつれ、大人の対応になってくる。
「あ、そう。じゃぁ歌わなくていいよ」みたいに軽く流されるようになる。
そうすると、面白くないし、ばつも悪いし、徐々に言わなくなるわけです。


まぁ、それはそれとして、愉快犯について。


私は人の気持ちを考えるということが出来なかった。
考えても、自分自身に辛く悲しい経験が乏しかったためか、
心から理解することが出来なかった。


これは弁明なんですが、
そういうのを正に愉快犯というのでしょう。
これも、はい。その通りです。


人の気持ちが理解出来なかったのは本当ですから、
それによる過去の行為を「反省」はあまりしていません。
しかし「恥ずかしい」とは思ってます。


人の気持ちを理解できないというのが、一種の人格障害であるとすると、どうなるのだろう。
人格障害ではなくとも、子供の心の発育の一つのパターンである気はする。
その場合、私の行為をを罪に問えるのか、或いは、減刑の材料となるのか。
私のような子は隔離して教育すべきか。


罪に問えるのかどうかは微妙なんじゃないかと。
隔離はすべきじゃないとは思うが、下に書くことと同じような問題はあるだろう。


で、今日の本題。
昨日の記事をもうちょっとストレートに書いてみる。


http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20070323k0000m040147000c.html
紹介した記事にあるような一般生徒の反応、
「気持ち悪い」「うるさい、死ね」といういじめが生じ得ることは、
かなり容易に想像出来る。


私のように、「何故特別扱いが罷り通るだ!」
と言い出す奴が出てくるとというもの容易に想像出来る。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%90%88%E6%95%99%E8%82%B2
勿論、障害者教育についてだって、色々議論はある。
誰の方針なのか知らないが、こういうのを実践していたのだろう。
実践するからには、その理由を説明することは出来るはずだ。
また、記事の例や私の例など、色々な問題が起こることも想定していたはずだ。


私は説明を求めた。しかし説明は無かった。
何故、説明が無いのか。
何も無ければ何も説明しないとかいうやり方でもない。
現に私は問題を起こしているのだから。


「うるさい、死ね」という反応に対して、
何故「小学生だと思え」という指導を行うのだ。
容易に想像できる反応に対して、何故こういう指導しか出来ないのか。
私が子供時代に気付いたことすら、この教員は理解できていないのか。
プロなのに。


きっと、教員自身が何も理解しておらず、命令に従っているだけなんでしょう。
その教員の上の人も、そのまた上の人も、単に命令に従っているだけかもしれない。
「なぁ、わかるだろう」という発言はそれを強く疑わせます。

屈折

仮に今の私が分かっているのだとすると、
「なぁ、分かるだろう」という曖昧戦術は、
結果としては成功したことになり、
従って、「なぁ、分かるだろう」という過程は賞賛されうるものとなるのか!


これは私の負けってことか!?

屈折

思い出話の続き。


私は道徳の授業か結構好きで、度々教科書とか他の人の意見とかを攻撃していた。
道徳は明確な答えが無い、考えて遊べる科目だったから。
「何故沈黙が罪なのだ、罪ではないだろう」
「自分の危険を回避するため、他人が虐げられるのを黙認することは、
確かに積極的に肯定こそでないものの、罪てあると非難することも出来ないだろ」
とか、
「過程なんてどうでもよい、世の中大事なのは結果だろう」
「成功という結果があるとき、はじめてその過程が賞賛されるものとして存在してくるのであって、
素晴らしい過程であっても失敗という結果に終わるなら、それは素晴らしくもなんともないだろう」
「何か文句あるか!何故この考え方では駄目なんだ!」
とか。
心底そういう疑問を持ったり、単に面白いから投げかけてみたり。


そういう意見に対して、教師が何をしたかというと、
後で私を呼び出して、「なぁ、分かるだろう」です。
「全然分かりません」とかっていうと、
「そんなんじゃお前はとんでもない大人になる」とかって言われたりもした。


私はとんでもない大人になったんでしょうか。
つまらない大人になっていると自分では思っています。

屈折

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20070323k0000m040147000c.html
ちょっと考えさせられた。


私は色んな子をいじめていたらしい。
大半は記憶にないのだが、大勢からそう言われるので、事実なのかもしれない。
そんな私ですが、ある知的障害を持つ子については、記憶に残っている。


その子の親から電話を受けました。
「息子を苛めないでくれ!」って。


私は苛めていません。
それどころか、殆んど関わってませんでした。
かといって、無視したりもしてません。


私は宿題とかをしない子でした。
翌日の授業のこととかも殆んど考えてないので、忘れ物も非常に多かった。
で、先生に叱られるわけです。
大抵は「はいはい、ごめんなさい」と適当に謝罪して終わり。
で、隣の女の子に教科書見せてもらってました。


けど、気分によっては口答えしたりもするわけです。
「A君(その知的障害の子)だって全然宿題しないし、いつも忘れ物してるでしょ」
「何で同じことやってるのに俺は叱られてA君はお咎め無しなんだよ」
とか言って。


どうやら、その知的障害の子は、それが苦痛だったようです。
まぁ、当然です。
けど、恥ずかしながら、その当然のことが、私には分からなかったわけです。


私はその子を攻撃する意図は全く無かったんです。
攻撃対象は教師。
「苛めないで」という電話を受けるまで、
というか、受けた後でよくよく考えてみるまで、
それがその子を追い詰めているということが分からなかった。


恐らく、私だけでなく、学校へも電話があったのでしょう。
教員に呼び出されて、意味不明なことを言われました。
「なぁ、分かるだろ」「お前とは違うんだから」とかって。


「『わかるだろう』ってのは、『お前には説明しても、分からないだろう』っていう意味ですか」
「分かりません、何故同じことをしているのに、私だけがこうして叱られるのですか」
とかって言っても、やっぱり教員は「なぁ、分かるだろう」に終始してました。


ちゃんとした説明があったとしても、当時の私がそれを心底理解出来たかどうかは怪しい。
けど、理屈としては理解出来たと思う。
その教師は本当に説明出来なかったのだろうか。
それとも、やっぱり私には分からないと思っていたのだろうか。


私以外の人は分かっていたのだろうか。
それとも、疑問を感じつつも、タブーを守ることが出来る、
私と違って空気を読める子ばかりだったということか。


今の私が本当に分かっているのかどうかは分からないが、
「なぁ、分かるだろう」という対応が不適切だというのは分かる。


因みに、今の私がどう考えているかということについては、
何となく書かないでおいてみる。