屈折

小学生のときに見た「世にも奇妙な物語」が悪い気がしてきた。ということは、小学校に乱入して、誰でも良いから教員を抹殺しなくてはならないということなのか?否、タモリを殺すべきなのか?

実は世界は自分が見ている領域のみしか存在しない。今正に見ていない領域は、実は存在しない。それを確かめようと、後ろを見るのと同時に、後ろという世界が存在を開始する。勿論、それと同時に、それ以前に見ていた世界は消滅する。もう細部は一切覚えていないけど、そういう話。

小学生の私には、ちょっと刺激が強すぎたわけです。未だに、そのイメージがこびりついていて、なんとなく冴えないわけです。


決して観測出来ないものとは、そもそも存在しないものと同じだ、という話がある。

で、時間というものを考える。過去が「存在した」のか「存在する」のかということはよく検討する必要があるわけだが、私の場合、いずれにしても直感的な不安は覚えない。何故なら、少なくとも、現在がそれに影響を受けているという気がするから。問題なのは、未来。

私の直感では、きっと未来は存在します。今正に問題としているようなことを考える上では、私が死んでも、なお世界が存在するかどうかという話は重要なわけですが、とりあえずそれは考えないことにして、きっと未来は存在するという直感を信じてみます。

何故未来は存在するのか?未来が現在に影響を与えるのだろうか?未来が今現在観測できないとすれば、未来は今現在存在しないのと同じ。それにも関わらず、未来は常に今として存在し続けている。


というようなことを、今日ふと思った。

要するに今しか無いといえばそれまでなわけだが、そういうのを説明されても納得出来ないし、それどころか、大抵の場合、その説明すら理解出来ない。

もう25年くらい生きているのに、そのあたりのことが、さっぱり分かりません。


「相対論と量子論を組み合わせると、粒子の存在の確立密度が光円錐から染み出す」それによって因果だの物理量だのを反転させるという解釈で反物質を説明するやり方がある。本当かどうか知らないし、どうやったら確認出来るのかも私にはわかんないんだけど、学校でそういう話を聞いたことがある。


未来が無いなら無いで、それが現在になってしまった時には、全〜〜〜く困らないと思っている。けど今現在、未来があるかないかということは重要。なんだか奇妙。どこかが間違ってるに違いない。


あーーー、もしかして、学校で聞いたような気がするその話の真偽を自分で確かめてみる、というのが、今現在取りうる最も現実的な選択肢だったりするのだろうか。やばい。辛い方向に思考が向かっている。